小さな暮らしの畑屋さん

地球といういのち溢れる星に生まれた喜びを、日々の暮らしの中で感じられるような、小さな畑のある暮らしを提案しています。

自然農的な子育てついて考えてみた①

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支柱と支柱の間に張り巡らされた蜘蛛の巣が、朝露に濡れ、朝日に照らされてなんか幻想的な今日の朝*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
 
こんにちは、顔文字にはまっているそーやんです(^з^)-☆
全然話は変わっちゃいますが、この間僕ら夫婦が通ってた福岡の大学にて講義してきました。
農業経営学の授業の一環で、実際に農業している身近な先輩の話を聞いてみよう的な企画です。
 
そんな中でとある学生から
「子育ても自然農的な感じなんですか?」と質問がΣ( ̄。 ̄ノ)ノ
まさかそんな質問が来ると思ってなかったので、しどろもどろな回答だったと思いますが、こういうときに粋な答え方がパッと出来るナイスガイになりたいものです。
あれから考えてみると確かに共通するとこはいっぱいあるかもなあと。
以下、自然農的に子育てについて考えてみました。
 
「育てる」ということを考えたとき、自然農的発想の根底にあるのは「もともと野菜(種)は育ち方をすべて知っているよ」ってとこにあると思うんです。

種は生まれた時から、すでにこの環境というか、この世界というか、この宇宙での立ち位置を分かっているし、どうそれらと関わって自分の潜在性を発揮するかという一番重要なものはすでに持って生まれてきていると思う。

 だから僕らの役目はその潜在性を発揮できるような環境を整えてあげることなんじゃないかと思います。

 

んでは、この野菜の潜在性を発揮するのに、邪魔してしまう一番の要因はなにか?

僕は今までこの答えは「人間の欲」だと思ってました。

もっと欲しい!もっといっぱい収穫したい!もっと売れるような商品にしたい!ψ(`∇´)ψ 

と思って、どんどん肥料やら農薬やら使って手をかけまくると本来持っているはずの生命力が失われてしまうし、自然の流れに逆らうからいろいろと問題が出てきちゃう>_<

確かにそれもあるかもなんですが、でも自分の欲自体を否定してしまうのってなんかつまんないし、無理だし、違うんじゃないかなあって思って。

それで最近思いついたのは、そんな不自然さの根底にあるのは野菜についても人についてもその「社会的価値」を「存在価値」と勘違いしていることなんじゃないかと思うようになってきました。

 

本来そのものが持っている価値が見えなくなって、いつの間にか「社会的価値」を求めるようになっている。

今の社会の価値観ってざっくりいうと「生産性」「効率性」「機動性」的なところですよね。

例えば野菜で言うと収量があって、回転が速くて、流通させやすい。人なら仕事が出来るとか、あちこち飛び回っているビジネスマンとかかなあ。

それらの点で優れていると価値が高いと評価され、それがそのものの存在価値のように勘違いしてしまう。

別に「社会的価値観」自体が悪いってわけじゃないのでしょうが、それって国や地域、会社、家庭によっても時代によっても変わってくるとても曖昧で一時的なもの。

それが全てだと思っちゃうと、本来もっている潜在性は発揮されず、その出口を失ったエネルギーは病気とか様々な形で問題として出てくるのではなかろーか。

 

つづく